神戸地方裁判所 昭和50年(ワ)291号 判決 1980年2月28日
原告
吉田トモ
右訴訟代理人
河野春吉
被告
国
右代表者法務大臣
倉石忠雄
右指定代理人
平井義丸
外三名
主文
一 原告の請求は、これを棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実《省略》
理由
一請求原因について
1 請求原因1の事実のうち、ラジパッドが昭和三四年一二月五日本件土地店舗について自己名義に所有権移転登記を経由したが、右登記に附属する信託原簿中の信託条項は、別紙第一目録の通りであつたこと、昭和三七年四月一一日、錯誤を原因として、右信託条項を別紙第二目録のとおり(但し、本項末尾認定部分を除く)に変更する旨の登記がなされたことは、当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、右変更後の信託条項(三)(ハ)項は、「世界何れの地でも天災による被災者で救助を必要と認めた者並びに貧困者」となつており、同(四)項は「病院、大学、学校教育機関の開設維持或は寄付」となつていることが認められる。
2 <証拠>を総合すれば、左記の事実が認められ、左記認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) バルデブは、大正一〇年頃以降神戸市に在住してスフィンクス商会を経営し、そのかたわら在日インド実業協会の会頭を勤めたこともあり、又、資産として本件土地他九筆の土地と本件店舗等の建物、東京銀行神戸支店に定期預金七〇〇万円余を含む預金を有していた。
(二) 原告は、バルデブの内縁の妻として、大正一二年頃以降同人と生活を共にして来たが、バルデブは、昭和三三年九月二五日、神戸国際病院で、原告の看取のもと死亡した。
(三) バルデブは、生前の昭和三三年七月六日、二人の証人の立会の下、同日付で英文の遺言書を作成したが、その内容は、甲第一号証の三と同一であつて、これには原告主張(請求原因1(一)の(1)ないし(5)項)のほか、左のような部分が含まれている。
(1) ラジパットが死亡した場合には、その死亡後、本遺言の執行者並びに受託者としての同人の仕事は、日本駐在印度大使に移るものとすること。
(2) 遺言者の死後、同人の独占的所有であるスフィンクス商会の名義並びに形態で経営している商会は清算せられるべきこと及びそのその会社の暖れんはもし買手があれば売却しても差し支えないこと。
(四) ところで、ラジパットは、バルデブの死後来日し、昭和三四年一二月五日、遺言執行者兼受託者として、神戸地方法務局において同人の遺産に属する本件土地店舗及びその他宅地等の不動産を、信託財産として自己名義に所有権移転登記を完了したが、この際になされた信託登記における信託原簿中の信託条項は、別紙一目録記載の通りであつた。
(五) その後、ラジパットは、前記のように昭和三七年四月一一日日、錯誤を原因として右信託条項を前記のとおりの条項に変更する登記を完了した。
(六) そして、ラジパッドは直ちに信託登記のなされていた本件土地及び店舗等の不動産を売却換金し、かつ、東京銀行神戸支店の預金を全部引き出し、それらの金員を持つて帰国した。
(七) 原告は、バルデブの死後、遺言書記載の一時金・恩給・病院費用を現在に至るも一銭も受け取つていない。
3 ところで、バルデブがなした前項の遺言においては、前記のようにスフィンクス商会の暖れんの売却について明記されているが、信託財産である不動産自体の売却換金処分については何ら触れておらず、かえつてその一部である本件店舗からあがる収入(これについては別の個所で店舗賃貸料と記載されていることは前記のとおりである)及び前記定期預金の利息の一部を信託基金として積立て、それがかなりの額まで達した時に慈善等の目的に使用することを委託していて、その積立期間は無限定であり、また、右信託基金の使途は多岐にわたつており、その多くは無限定の期間にわたつて使用されることを予想しているものと解され、遺言者は右基金が末永く運営されることを希望している趣旨が前記遺言書に明示されていることからみると、事情変更により信託法にもづき所定の手続を経て信託財産の管理方法の変更がなされた場合は格別(本件においてこの措置が採られたことの立証はない)、本件信託においては、本件土地店舗を一体として受託者の許にとどめ、これを賃貸等に利用して収益を得ることを予想していたもので、右不動産自体を売却等処分して換金することは、本件受託者の信託財産に関する管理処分権限には含まれないものと解するのが相当である。
4 従つて、資産の全部或は一部の換金を管理方法として認める本件第二次的信託条項に更正登記<証拠>によれば、この記載は信託原簿の「変更」欄に記載されているが、その原因として、当初の信託登記日である昭和三四年一二月五日錯誤と記載され、更正事項として信託条項が記載されていることが認められるから、更正登記の趣旨であることは明らかである)をなすことは、前記遺言書の趣旨に違背するものというべきである。
ところで、原告は、本件更正登記を受理した登記官はラジパット請託を受けて右登記が前記遺言における信託の趣旨に違背し許されないことを知りながら敢てその受理をなした旨主張するが、<証拠>のみでは右事実を認めるに足りないし、他に右事実を認めるに足りる証拠はない(なお、<証拠>によれば、当初の信託条項の記載と本件更正登記のそれは同一人によつて記入されたものではなく、前者がその登記申請人側によつて記載され、後者は登記官によつて記載されたものであることがうかがわれるが、信託原簿の記載事項について更正登記をする場合は、当初の信託登記申請の場合とは異り、申請人ではなく登記官が変更欄用紙を編綴して当初の信託原簿と契印を施したうえ、自ら更正事項を記載すべきものと解すべきである(不動産登記法施行細則五七条の一〇)から、前記の登記の記載方法によつて原告主張のように登記官が請託を受けたことないしはその故意を推認しえないことはいうまでもない。)
5 そこで、右更正登記の申請を受理した登記官に過失がある旨の主張について検討すると、まず、本件信託登記及び右更正登記に関する申請書及びその添付書類はすでに保存期間を経過したため廃棄されて現存していないことは<証拠>によつて認められるところであり、本訴において前記遺言書の写(甲第一号証の三)及びその訳文の写(同号証の二)として提出されている両書証を検討しても、その原本が前記各登記に際して添付書面として提出されたことの形跡もなく、他にこの事実を認めるに足りる証拠はないのであつて、結局如何なる書面が本件信託登記及び更正登記申請の際の添付書面として提出されたかについては適確な証拠はないものといわざるを得ない。
もつとも、<証拠>によれば、甲第一号証の三と同内容の遺言書について家庭裁判所の検認がなされていること及び本件信託登記後も継続していた債権者をラジパット、債務者を原告とする仮処分異議事件においては、甲第一号証の三がバルデブの前記遺言書の写として申請人から提出されていたことが認められ、この事実は、本件信託登記申請の際に添付書面として遺言書が提出された場合には、右の甲第一号証の三と同内容のものが提出されたことは一応疑わせるものである。しかし、他方、本件信託のようにそれが遺言によりなされた場合その登記に際しては、遺言書自体はその性質上信託行為(対象不動産の処分行為を含む)の効力発生の日を明らかにしないものであつて登記済証作成のための適格を具備していないため登記原因を証する書面(不動産登記法三五条一項二号)とならないから、同法により添付を要求される書面に当らないものと解すべきであつて、この点からみると、本件信託登記の申請の際には申請書副本のみが提出され(不動産登記法四〇条参照)、遺言書自体の提出がなされていなかつた可能性があるし、また右申請に際し、遺言書が遺言執行者を指定したことの証明の必要等から提出されていたとしても、前顕<証拠>によれば、本件土地についての受託者ラジパットのための所有権移転登記の登記原因としては、昭和三四年七月三一日信託行為となつていることが認められるのであるが、その日付は前記遺言書の日付や遺言者の死亡日とも異つていること、先に認定したように受託者は、本件土地店舗以外の宅地等の不動産についても遺言書において特に信託の対象とされていないのに、信託財産として受託者名義にそれぞれ所有権移転登記を経由していること及び本件信託においては原告が受益者とされ、その内容が遺言書に明記されていたことは前記のとおりであるのに、甲第三号証によれば、本件信託原簿では受益者の氏名住所欄が設けられていたのにかかわらずその欄は空白となつていて、原告の受益事項については何らの記載もなされていないことが認められることを考慮し、前顕甲第一号証の三によれば、バルデブは、生前に前記遺言書を作成する以前にも遺言書を作成していたことが推認できるから、前記遺言によりそれ以前になされた右遺言は全てその効力を失つているとしても、その遺言書自体は残存していて受託者がこれを入手していた可能性も否定できないことも併せ考えると、本件信託登記に際し遺言書が添付書類として提出されていたとしても、それが前顕甲第一号証の三と同内容のものであつたと推認するには疑問が残るものと云わざるを得ない。
そして、本件更正登記については、先に認定したように錯誤を原因とする場合、その性質上その登記原因を証する書面自体は存在しないものと解すべきであるから、遺言書が右書面として提出されていたものとは推認できないのであり、ただ、変更を証する書面(不動産登記法第一一〇条の一〇)として遺言書が提出されていた可能性があるとしても、前記のように当初の信託登記においても前記の甲第一号証の三と同内容の遺言書が提出されていたか疑問が残る以上、右登記後にこれを前提としてなされた本件更正登記においても同様の疑問が残るものといわなければならない。
さらに、登記申請書に外国文字の文書が添付された場合、<証拠>によれば、登記実務においては右の点に関する先例通達に従い、申請人にその訳文を記載した書面をも添付することを義務づけていることが認められるが、本件信託登記及び更正登記申請の際に前記遺言書が添付されていた場合、その訳文として如何なる書面が提出されていたかについてもこれを認定しうる適格な証拠はなく、先に遺言書自体について判断したのと同様の理由により甲第一号証の三の内容を正確に訳した文書が提出されていたものと認定するには疑問があるといわざるを得ない。そして、原告が主張するようにラジパットが当初の翻訳に誤りがあつたとして、前記の第二次的信託条項の内容に符合する訳文を提出したものとすれば、仮に甲第一号証の三と同一内容の遺言書が提出されていたとしても、以下に検討するように、右訳文に従つて本件更正登記受理した登記官に過失があつたものとは認め難いのである。
不動産登記法施行細則第四七条によれば、登記官は登記申請書を受取つた場合遅滞なく申請に関する総ての事項を調査し、さらに同法第四九条によれば、同条一号ないし一一号の事由がある場合には申請を却下すべきことがそれぞれ定められているが、その審査権限の範囲については明定する規定はない。しかし、登記官は、権利に関する登記の受理に際して、申請人から提出されたもの以外に独自の資料を収集して調査すべき権限及び義務はないとしても、少くともその申請に関する形式的適法性を、申請書、添付書類及び登記簿などの書面調査の方法によつて判定し、これによつて判定しうる不適法な登記申請を却下すべき義務が要求されているものというべきである。
ところで、申請書に外国文字の文書が添付された場合の調査方法等については特に法定されていないが、<証拠>によれば、登記実務についての先例通達においては、前記のようにその場合の必要的添付書類である右文書の訳文には翻訳者の署名捺印は必要ではなく、また正確な翻訳である旨の証明書の提出も必要とされておらず、ただ、申請人が「右は訳文である」旨の記載があれば足りるとする扱いとなつていることが認められる。
そして、登記官の前記の審査義務からいうと、右の訳文の正確性について検討するため、さらに鑑定等の証拠調を実施すべき権限や義務があるものとは解し得ないし、また、登記官に対し、一般的にその職務上の知識能力として英語を含めた外国語につき一般社会人が有しているより以上の読解力を備えるべきものと解するのは相当ではないから、特にその外国文が簡単平明で、その時点における当該外国語の普及状況を考慮して、一般社会人が容易にその内容を判定しうるものと解すべき場合は別として、一般的には、原文と訳文の外形上の対比等から正確性に欠けることの疑問をもつべき特段の事情のない限り、原文とその訳文を内容的に逐一対比することなく、その訳文のみにより登記申請の適法性を判定すれば足りるものというべきである。そして、前記遺言書は、先に認定したように、遺言執行者ないし受託者の指定、信託の目的、信託財産の管理処分方法、受益者に関する事項のほか、甲第一号証の三によれば、受託者の日本における協力機関、その運営方法、遺言者の債務の清算、各受益者に対する利益提供の条件、方法、遺贈など各種の内容を含む長文のものであることが認められ、一般的に登記官に訳文の正確性について原文と対比して検討する義務を課するのが相当と認めるべき簡単平明な外国文とは解しがたいものといわなければならない。
従つて、本件更正登記の申請に際してバルデブの作成した前記遺言書が提出されていたとしても、それと共に提出された訳文が右内容と一致せず、第二次信託条項に符合する記載が訳文上存在していた場合には、この訳文についてその正確性について疑問をもつべき特段の事情があつたか否か不明といわざるを得ない本件では、右訳文に従つて本件更正登記を受理したものであるとしても、当該登記官にその注意義務の違背があつたものと断定しがたいものといわなければならない。
以上に検討したところから明らかなように、第二次信託条項はバルデブのなした遺言中の信託内容と相違する部分が含まれているのであるが、本件更正登記の際の添付書面についてこれを認めるべき適確な証拠がなく、その際に右遺言書自体が添付されていたか否かも、また、その訳文の内容、形態等についても明らかでない以上、その登記申請の受理につき登記官の過失の有無も判定しがたいものといわなければならず、結局本件については右過失の存在について証明がないものといわなければならない。
6 最後に、原告は本件更正登記に手続上の瑕疵がある旨主張しているので、この点について検討する。
まず、信託登記の際の添付書類である信託原簿の記載は登記とみなされ(不動産登記法第一一〇条の六第二項)、その内容について錯誤ないし遺漏がある場合には、同法の更正登記に関する規定及び同法第一一〇条の一〇にもとづきその更正登記手続をなしうるものと解すべきであつて、その受理自体は違法といえないし、また、前顕甲第三号証によれば、本件更正登記においては、更正事項の記載が「変更」欄になされていることが認められるが、更正登記も広義における変更登記に含まれるものと解しうるから、右記載方法も違法とはいえない。
しかし、前顕甲第三号証によれば、本件更正登記においては、当初の信託条項を実質的に更正する第二次信託条項が更正事項として記載されながら、従前の信託原簿中の信託条項の記載については朱抹されていないことが認められるから、この点は更正登記の記載方法に関する不動産登記法第六六条、第五七条に違背するものといわなければならない。
そして、原告がこの違法な登記手続をなしたこと自体を独立の不法行為と主張する趣旨と解すべきであるとしても、従前の信託条項の朱抹を怠つたという登記手続上の瑕疵自体と原告主張の前記恩給等の支払を事実上受けられなくなつたことにもとづく損害との間に法律上の因果関係があるものとは到底解しがたいから、右主張も採用できない。
二結論
そうすると、原告の本訴請求は、その余の事実を判断するまでもなく理由がないものといわなければならない。
よつて、本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文の通り判決する。
(大石貢二)
第一目録(変更前信託条項)
一 信託の目的
管理並に信託財産によりあがる果実或は収益を次の目的のために使用並に処分する。
(一) 受託者の指示した左のような者に金銭其他による援助並に奨学金の支給。
(イ) インド人及び日本人で宗教的信条及性別を問わず学生で業績がありこれに値する者。
(ロ) インド人で特に農学応用美術又は工芸学の何れかの分野に於ける研究又は実習に従ふ者。
(ハ) 日本人でインドの芸術及文化の研究又は実習に従う者。
(ニ) 其他天災等によりインド人及日本人で救助を要すると認めた者。
二 管理方法
通常の管理方法に依る。
第二目録(変更後信託条項)
昭和三七年四月一一日受付第五八八一号
原因昭和三四年一二月五日錯誤
更正事項
信託条項
信託の目的及び管理方法
(一) 不動産の管理 資産の全部或は一部の換金
(二) 資産の管理並に信託財産よりあがる果実或は収益の一部を直ちに現金化することの出来るものに投資すること。
(三) 資産の全部又は一部を受託者の指示する左のような者に金銭其の他による援助救助並に奨学資金の支給。
(イ) インド人日本人で宗教性別を問わず、農業美術技術の何れかの分野に於ける研究又は実習に従ふ者で成績のよい価値ある学生。
(ロ) 日本学生で印度芸術文化を研究し又は芸術科学分野の実習に従ふ者。
(ハ) 世界何れの国民でも天災による被災者で救助を必要と認めた者並に貧困者。
(四) 病院・学校教育機関の開設維持或は寄附。